昨日の四方山にも「寛容」と言う表現を使わせて頂きましたが、ふっと気がつくとこの「寛容」は実に様々な分野で使われており、太極思想自体も寛容そのものであることは自分の二人の師との長い付き合いの中で実感しております。そして、数回程陳家溝訪問でもシャングリラである太極郷の人々は正に額に「寛容」の二文字が烙印されているようで、生きた太極との時間が自分の生涯に流れております。
これは当然のように太極はもともと、山奥の道教の館で練習されていたのですが、その方々は基本的に仲間と争うことは必要がないと言っても過言ではありません。そして、太極はその名刺通り、ありとあらゆる総合的な拳法であり、哲学とも緊密に繋がっている為、自ら攻撃を仕掛けることはないと言ってもいいくらいですね。もしも、人になにかを仕掛ける時はいつも、密かに相手の動きを捉えたり、交わしたり、予知の上コントロールしたりとの方法を用います。初心者の方だといつも、どの段階で把握されたのかはなかなか、理解出来ないと思いますが、ある程度の太極勁が身に付いた段階では更なる太極勁の達人にコントロールされてくるプロセスが察知しても間に合わないという感じですね。これも、恐らく、一つの寛容さではないかと勝手ながら感じております。太極勁とは無理をせずに他人の有りの侭を受け入れなければ成り立たないものであります。
そして、太極推手の中では落ち着きがなによりも大事にされてきました。かつては太極拳修練者は皆、体が大きいという説がありますが、でも、最近の近代科学の分析では必ずそうではないことが判明しました。太極の達人だっと基本的に極度の激しい運動がしないですし、常に落ち着いている気持ち的要素から少々太っても理屈は通りますね。これは正に中国語「四字熟語」では「心寛体胖」のことを指しますね。勿論、他にも色々な理由があります。中国の独特な食文化や西洋医学輸入の遅れ、炭水化物の過摂収などの総合的な要因で中国人全体が成人病にかかり易い体質の持ち主であることも非議出来ないものがございます。成人病になること自体は困ってしまいますが、健康で生活が落ち着くのであれば、少々の肥満でも太極的寛容さの元であれば特に問題はないと存じます。
太極的寛容は回りの太極修練者や他の武道に対するものだけではなく、社会全体的に広がる人間不信も太極思想的寛容でもって対処すれば、きっと良き結果が生まれてくるに間違いありませんね。ミスを犯した人を許す心の余裕、心身とも打撃を受けた方をケアーする自身のゆとり、出来るならば貧しい人々を援助する経済的実力・・・。こう話しているうちに「四方山」は宗教的な観点になってしまうのですが、本人は形而上学的な宗教学説は大嫌いですし、一言寛容と言っても雲の上に存在しているような寛容よりも実質的に人間社会の中での対人関係といったすぐそばにいる小さな地味な寛容が望ましいです。
寛容というものは人間が小さい時から少しずつ養っていく本能的な知識であり、例え子供が寛容ということが理解出来なくても大人としては偉そうに教え込むのではなく、自分自身で寛容というものを実施して生きた人間的教材を提供することが本人的には望ましいです。
そして、時々私は子供のような大人にはわざっと推手で押し出されるようなカタチを作ります。これは教学の時に自分自身が間違った真似をして学生に押してもらうこととは違い、これは憐れみでもなく、ただ子供のような大人は推手の時に相手に勝つことしか頭にないですから、負けると自己嫌悪に陥るからです。カンセリングの慣用手法ですね。
太極の代名詞である寛容
2013年11月18日