中国語が言う感覚とは日本語の感覚のニュアンスと微妙に違う時があり、このような場合は本当に言語力が試されますね。日本語の感覚は個人的に感じているのは状態語のような存在です。身体的のみならず心体的にも及びますね。近代中国語だとどちらかというと名詞と動詞の感覚が強く、機能的な反作用力の範疇に留まっているような気がします。でも、本当に不思議に「感覚」と言う言葉が太極拳用語になった途端に、心の状態を表す表現の一つとなり、急に日本語に近づいたことで本当に不思議になります。このような感覚は私も日本に来て10数年経ったところでやっと掴んだわけでございますね。宋遠橋伝太極基礎ではこのように話してくれました:「身有所感,心有所觉。有感必有应,一切皆为感,感则必有应,所应复为感,所感复有应,所以互生不已。感通之理,精义入微,以致用也。推手初步,专在磨练感觉。感觉?鋲敏,则变化精微,所以无穷也。」これを日中通訳専門家にお願いして訳すとおそらく、太極拳愛好者の誰も理解出来ないことで、私なりに幼少期に呉師と馬師の教えお綴ったノートを参考しながら説明してみたいと思います。
人間の体は必ず何かを感じるようになります。そして、この感覚は必ず心に伝わっておきますが、心とは心臓のことではなく脳のことです。そして感じたら必ず脳が何か反応をします。世の中のすべての出来事が感覚によって成り立ち、感覚があれば必ず何かの応対が施されます。応対すれば再び感覚が生まれ、また更に新たな感覚が生まれます。感覚と応対は常に補い合い、互いに作り出すことの繰り返しになっています。感覚が自分自身に完全に通じることは非常に微妙で細かくて、感覚と応対に何も妨げがなければ始めて実用価値が生まれます。推手の初心者は感覚を養うべきです。感覚が機敏になれば、すべての変化も身に付き、限りない太極勁が身につくのでしょう…、と。
一応、このような訳になってしまいます。それでも理解できないと思いますね。はっきり申し上げますと、太極拳の「感覚」というものは推手かた来ています。互いに手を出来る限り軽くして押し合って、譲り合って行けば、細かい感覚と応対と、そして、再感覚と再応対の連続が出てきます。所謂、推手の時に相手様に勝つと言うことになると、弱者の拳法である太極拳ではパワーで勝とうとせず、感覚と応対の細かさで物を言うことになります。力があまりないからこのような細かい太極推手で感覚を磨き、何とか力のある人間と応対出来るようになります。勿論、このような勁は習得しにくく、力闘に走っていたら当然のように勁の習得の妨げになるし、毎日のように推手しかやっていなくて、太極の基本である感覚を受け入れやすい体作りの元である太極拳の修練も大切です。となると太極拳離れが一層激しくなることで私達は心配しておりましたが、競技種目で大連盟の力で、少なくともこの世に太極拳のいう名詞は永遠に無くなることはないだろうと思うと、安堵な気持ちになり違う角度で太極拳を研究し続けている方々の努力に関しては本当に感無量で御座います。安心して我が家の太極拳と言うものを研究出来ますね。
勿論、外家拳の諸流派にも感覚を大切にすることで有名です。故少林派海灯法師のお弟子さんと交流する機会があって、手と手を触った瞬間に二十頃の我が手が封じられ何も出来ませんでした。そして、瞬間に自分の足が浮いていましたね。当時の呉式の達人とされている銭超群師も交流を図ったのですが、五分でしたね。結果的に太極拳だけではなく、多くの武道流派が感覚と応対の繰り返しを研究課題とし、出来る限りの往復の細かさで相手に勝負を挑むことはもやは武道の代名詞であります。より豊かな感覚と応対の「禅問答」のような練習は太極拳の各家で研究されております。そして、太極拳推手のもう一つの特徴ですが、互いに進歩することを常に図られております。勿論、武道家としては誰もが謙遜な心でもって人と接していくべきですがこの点にでは、最近の太極拳各流派では少し心配事も出てきています。私はもっと日本の空手や柔道などの格闘技の皆様に学んでいきたいと存じます。驕者必敗。