旧 太極拳よもやま話 未分類

禁じ手

2013年11月17日

何事にも、どの分野に於いても禁じ手と言うものがあります。功夫の世界もそうですね。やってはならないことをやると人様にまたは自分自身にも害が及ぼすことになります。今日に至る迄は実に武道家同士の交流や某武道家に対する挑戦のような人間的な身勝手な行動で事件へと発展してしまうことも多々ございました。日本はまだ法治国家で法律がしっかりとしていますが、諸外国だと自分が強いと勝手に思っている方々が色々な武道家に挑戦することを日課のようにしている程な無秩序っぷりが実に戦いでおります。人間心理学的に分析すると、人間というものは自分より強い人間を見ると自ずと不服が湧き出、腕がなっては挑戦へと移りますが、でも、考えてみるとこれは実に原始社会的な行動ではないかと私は感じております。人類は太古の昔に限られている野の実を奪い合う為に戦ったり、そして今日でも砂漠では相手を倒せば相手を食料にし自分は生きるという熾烈な狩りはまだ続いていますね。人間が武道の勝ち負けに拘ることは原始的本能が抜けていないことではないでしょうか。そして、文明世界である今日も人間同士の戦いを試合にしており、調印して戦うことも楽しまれていますね。五輪の正式種目の中にも格闘技が複数存続して金メダルを争っていますね。これはこれで素晴らしいことです。ただ、太極の世界では少なくとも打撃を競い合うことがなく、紳士的な推手というもので互いに健康の為に体を鍛えながら、攻撃から身を守ることを中心に修練すべきだと、太古の時代から伝わってきました。元々道教の考えでは、太極と言う武道ですが、人様に競り勝つ為にのものではなく、自分を勝つ為に拳法であります。ならば、例えば推手の交流で人様に押し出されてしまったら自分の太極勁修練がまだ足りなく、人様の成熟した太極勁に敬意を表すことが進められています。逆に人様や他流派を憎んだり、自己の世界に閉じ込み他人との交流を拒んだりすることは太極の界隈での「禁じ手」になります。太極拳は元々、心のリラックスを求める功法です。太極勁の成熟は謂わば人間的成熟でもありますので、この世のすべての対する包容力が求められていますね。
 そして、太極推手自体も禁じ手がありますね。人様に対しては首を絞めたり、殴ったりは出来ません。でも、他流派との交流の中では太極推手と同じような限定もしません。昨今、太極と他の拳法の交流はかなり少ないですし、太極同士による推手交流も流派間に限られていることが殆どですが、太古の時代はもはや太極も紳士的に様々な拳法と積極的に交流していました。勿論、太極的禁じ手がきちんと守っていたし、他の拳法にはどのような手でも許していましたね。当時の太極は強かったと言いたいですが、今日の太極事情は実に様々な人間的な出来事に左右されており、人間的成熟はもやは太古の昔と比べれば退歩しているのは多くの人間学者が言及されてきた通りだと個人的に思っております。
 結果を申し上げますと、太極は自分自身には厳しい「禁じ手」を設けており、他人(他の拳法)にはいつも寛容そのものですよ。勿論、他の拳法の方々も常識的な武徳をお持ちであれば、太極との交流時は首締めや打撃技を封印しますね。
 武道の禁じ手はもはや人間的責任の元で無意識に制定されているものであります。これは近代五輪格闘技の世界も同じです。攻撃をしてはならない部分を攻撃すると反則負けとの判定が喰らいますね。日本伝統の相撲の規則にも髷を引張ることを禁じていますね。どの武道もこのような決まりが存在しているはずです。
 だが、最近の中国太極拳家元の個別な先生が推手で後輩に押し出されてしまったことに立腹し、後輩の首を締めようという大きな出来事がありました。同じ太極門に人間の私ですが、穴を掘って入りたい位恥ずかしく思っております・・・。

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