この頃、推手時は何故発勁しないでしょうかとのご質問がかなり多いですし、私と推手をしていて「軽いですね。やられないのでしょうか」と心配の声もよく聞きます。お陰様でまだ押し出されていないですが、多くの方は力尽くで押してくることは私にとって珍しくないことです。1980年代の中国も現在の日本人の皆様と似たような推手をしていますね。というよりもその当時の推手がこのまま日本に流れ込んで来たようです。この頃の呉式太極拳上海鑑泉社の若者達から多くの60代の者迄力尽くで推手をしています。不注意で滑って転倒して人間関係が悪くなることもあり、太極推手がいつの時代からこのように人々の面子の争いや欲望の顕示の道具になったのかは不可知で、少なくとも太極本来の「以柔克剛、四両抜千斤」の基本からかなり遊離していることは確かです。
多くの方々はきっと、相手が押してくる手をある程度封じておきないとやられるのではないかと心配するのですが、それはそうですよ。推手を交流とは言え相手の手付きも何も解らないし、どの位の力で来ることも予測出来まいし、押し合いをし始めたらどのような変化になることなども当然のようにある程度頭に置きたいことは重々承知しています。誰もが人に押し出される為に推手をしたくないですね。かつての巨匠達も推手を太極の戦いだと言っていた時代があったように、今日も、少なくとも私のようなあまり欲望が強くない人間でも出来れば推手では負けはしたくないです。自分的にはどうしても勝つことを最優先にするのであれば、おそらくこのおよそ40数年間の間にキックボクシングや少林十大形(少林内家拳の一種)に転出しました。太極拳より即効性がある拳法は世の中に沢山ありますね。でも、自分は何故か浮気をしませんでしたね。これはおそらく師馬岳梁の存在が大きかったと思います。太極拳の即効性がかなり悪いと知りながらいつかいつか、出来れば師馬岳梁のような「太極勁」が身に付くと言う夢が自分を支えて来ましたね。勿論、孤独な時もあれば理不尽な時かなり経験しています。何年練習しても太極勁が全然上がらない時期もありましたし、現在も五度目のブランクからなかなか抜け出せなくて困っておりますが、回りに多くの太極拳学生が雨にも負けず風にも負けずに一生懸命修練しているお姿が自分にとって一番大きな励ましでありますね。太極勁修練は国会の「牛歩」に実に似たものでしっかりした人間性で向き合うことは本当に大事であることは自分も最近になって悟らされたような気が致します。と言うことで自分は何とか力で相手が押してくるパワーを封じていく手を使わずに相手が入って頂く為に手を軽くしています。勿論、これは太極勁訓練の絶対条件でもありますね。勿論、油断すると相手様に押し出されてしまう危険性もありますが、そうなれば謙遜になって自分の太極勁がまだ完全ではないことを認め、修練に励むしかないですね。
太極拳は弱者の拳法と言う前提で設計された哲学的な拳法です。当然にように修練法も一般の武道と違うことはこの私が言わなくても多くの皆様がもう、ネットで見ているはずですが、と言う事で推手ももっと弱者らしく軽くすべきですね。そして、私のような人様に太極拳を教える者にも責任が重大です。数十年も太極修練をしているとパワーが自然につきますが、太極拳学生さんとの推手の時に、はっきり言ってあまりパワーに無い方々とほぼ同じ力で推手を行う必要がありますし、その方々の身の安全も気にしながら転倒や他の怪我をゼロにする観点からも絶対的に軽い推手が不可欠です。
そして、何より太極勁は静けさと軽やかさを大前提とする独特なパワーです。これは相手様の僅かな動きを感じる為の行いですね。発勁をしてしまえば相手様も自然反応で抵抗して来ますね。そして、こうなるとお互いの体が硬直し僅かな細かい動きは感じなくなります。謂わば、太極勁が修練していないことになりますね。そして、何より太極勁は推手の双方のどちらも同時修練になります。(私や師馬岳梁をも含む)現在、太極拳を教えている立場の私も学生の皆様と推手をする時はまず敬意を表しことから始まっていますね。何故ならば推手相手を尊敬していなければ太極勁の習得も不可能です。
何故、発勁しないのか?
2014年1月11日