本日は中国文化革命の時の漫才のような話しをしてみたいです。世の中はストレスだらけで毎日のように難しい文書を読むと結構疲れますね。本日は現在の北朝鮮よりも酷い文化革命時の中国の笑い話を私なりに思い出しながら書いてみますが、笑えるかどうかは貴方次第ですね。
1966年から1976年までのおよそ10年間の間に中国では映画館で上映出来るものは実に限られています。国産の映画では京劇の五つの作品とバレー劇の二つの作品です。いずれも革命的なないようですね。第二次世界大戦の内容と地主が国民と一緒になって農民を詐取する内容と、北挑戦と兵士と中国人民軍が米兵との戦争内容、あとは階級闘争のないようです。京劇の音楽をピアノ協奏曲に編集した人が人民一級ピアニストになりましたね。バレー団の著名ダンサーが戦争劇しか出来ません。その時の言葉では「样板戏」と言っていました。音楽はすべて革命の歌です。これは中国人の方で私と買わない年齢の人でしたら皆経験しているはずですね。当然、工場も農村も皆があまり働かないです。学校では革命の内容がメインです。当時では勉強しなくても学校は卒業出来ますね。勿論、高卒は勉強が出来るというわけではありません。その学生の革命的階級によって決まれれます。農村では一般的に「貧下中農」の子供が高校へ進む権利がありましたが、「貧下中農」は貧農と下中農の略です。謂わば共産中国になる前にその人の社会的地位が貧しければ貧しい程、その人は革命派なのですね。理由は共産主義者は皆、貧しい人だからです。当時中国農村の模範である「大寨」と言う日本では市町村の村に当たる存在の長ですが、「貧下中農」であることと階級闘争をしっかりやったとのことで毎年の豊作に繋いだとかのことで当時の国家の副総理に抜擢されましたね。学歴は確かに小学校は卒業したと思います。
日本国では当時の中国が報道の閉鎖などもあって本当の酷いところはなかなか、理解出来ないと思います。文化による武闘は当時の中国では戦争とあまり変わらない恐ろしさでした。武闘になると一般的には大都市間で行われていましたね。酷い時は一つの都市ともう一つの都市が武闘をすると実際に武器をも配っていました。当時では民間のちょっとした人間関係のいざこざで地元の共産党書記さんのサイン一つで銃殺が簡単に行われていました。執行は民兵の任務でした。ある地方で間違って違う人を銃殺してしまった後に、党書記がサインを補って片付けたようです。これはあくまでも民間でのちょっとした人間関係から生まれる悲劇にすぎませんが、共産高官レベルになるともっと激しい派閥の闘争や多くの民間人を巻き込んだ殴り合いも日常茶飯事でしたね。当時の人間は皆、本当に狂っていましたよ。食事する前には毛沢東の言葉を読むとか、共産中国以前で少しでも財産をもっていた家庭だと新しい洋服を着るのもできなかったですよ。理由は資本主義思想が強いといつ何が来るのかは予測できないからですね。日本人の皆様がご存じの人民服はその当時のものですね。勿論、世界有名ブランド洋服の知識もないですし買うお金なんかあるわけがないです。
当時、かなり被害が酷かったのが文化人です。海外と交流のある種目は殆どスパイ罪で投獄になります。クラシック音楽専攻の人たちは職場がなくなるわけですからね。革命内容のピアノ曲や声楽作品は革命覚悟がしっかりした人間だけが演奏してよいもので、中型の市レベルの音楽事情になると五線譜が古い文化として禁じられていたそうです。代わりに1~7までの数字の楽譜で曲を記録していましたね。地方劇では歴史題材は一切禁止されていました。上演出来るものは革命劇の七つのみですね。海外映画も上演していましたが、それば北朝鮮のものが殆どで、時々、ベトナムの映画も上演します。とにかく、当時の中国は米国とも旧ソ連とも、欧州とも中が悪いからですね。
宗教の迫害は世界的にも有名です。文化革命以前から始まっていましたよ。カトリック教会では1955年に共産中国に殺された殉教者の数名を聖人として認めています。皆様が中国杭州旅行の時にはおそらく有名な?鋲隐寺を拝観されたと思いますが、あの中の仏像はすべて作り直していましたね。文化初期に一度は全壊しました。僧侶、道士、牧師・・・、殆どの方が生活の為に信仰を放棄して働いていました。神父さんですが、頑固者が多いようで豚箱生活が殆どでしたね。
この状態での中華武術は想像に任せます・・・。
太極拳とまったく関係ない話し
2014年3月1日