今日でこのようなかなり古い中国語を口にすることでこの私も中古市場に出てくるような品になったのでしょうね。もともと、これは中国の「皇帝陰符経」で言及されていた言葉であり、道教信徒では一定の修練法で続ければ、「道」との一致に至ることになると信じていました。そして、このような人々は「後天神仙」と呼ばれ、更にこの中では「天尊」の位まで登り詰める人間もいます。勿論、これは宗教になってしまいますね。去年の10月に私用で故郷上海へ帰郷した際に伺った上海の警察高官達は最高の武術を探し求めていたら、「丹道」と「呉式太極拳」で別れてしまいました。数人の警察の人間と上海で交流したことがあり、実力はかなり宜しいです。そして、中の一人の話しを伺ってみたところでは、「丹道」へ行ってしまった方々では数人がかなりの偏差が起きていて、かなり怖いようです。「皇帝陰符経」で言及されていた「三花聚頂、五気朝元」は私からみるともはやストレスが溜まっている近代人は無理のような気がします。簡単に申し上げると、集中が出来ないですね。私はたったの小九天後功法で鼻血が出る位です。「三花聚頂、五気朝元」は山奥や洞窟の中ではなければ無理でしょうね。私は例え山奥へ言っても毎日のように浮世の遊びのことだけが頭の中から出てきそうな気がします。
道教学説として中国古代萧廷芝氏の《金丹大成集》には詳しい説明があります。「問三花聚頂。答曰:神气精混而为一也。玄关一窍,乃神气精之穴也。」意味は人間の精気神を一つにし頭上の「玄関」というところに集めることです。不思議に道教の「金丹術」の最後は丹田ではないですね。「玄関」とは今日の日本人の表口という意味ではなく、脳の中のとある場所です。三花聚頂の頂は丹道用語で別名「天宫内院」と言います。天宮は今日で言えば脳のことですが、「内院」は印堂穴と百会穴が垂直線が交差したところの脳の中の風洞のことです。勿論、封建社会道教ではあまり公に人々に教えたくないですし、そして、この三花聚頂は初心者が丹田気の基礎も全然出来ていないところでいきなり「天宫内院」に精気神を自己暗示で集めるわけがありません。もう少し具体的に説明しますと、中国語では昔、「花」と「華」がまったく同じ発音であって、昔のままで日本に伝わってきた時とまったく同じく、今日の日本語もまったく同じ発音していますね。「花」はもともと、人体の精気神の「荣華」として解釈されております。近代日本語で言うと濃縮タイプですね。はっきり申し上げますと太極の世界では「精気神」の訓練がメインとされてきたのですが、道教気功の失伝や太極理論の多様化により現在の世界太極拳界隈ではもやはスポーツとしての分野になりつつあります。しかし、実際に「精気神」位の解釈も様々で極普通の太極拳を練習しているだけで自己暗示などにより激しい呼吸や幻聴幻視などの「偏差」が世界中に見られています。丹田さえ出来ていないのに、「天宫内院」は無理に決まっていますね。
しかし、中国国内では本当にありとあらゆる情報が飛び舞い、小説を読んでテレビを見てすぐに確かな情報だっと判断してしまう程の文盲率も手伝って、伝統道教の中では一生涯かけても修練不可能な技を自信満々にやってしまうわけです。しかも、ネット上から何かのデタラメな情報を得てそのまま修練に入りますね。道教太極では一般的に「吸は丹田で吐は踵」というふうに説明していますが、これは決して自己暗示ではなく、全身が柔らかくなって、滞りがなくなれば自然にこの丹田の踵の領域に入ります。太極拳修練者はただ、正しい動き(正しい太極拳)と自然呼吸を注意すればよいです。難しいことは何もないですね。
「三花聚頂」になると色々な難しさが出てきます。まず、脳に一番近いところに意識をされるだけでも「偏差」が起きそうな気がしますね。そして、本当に推手時も三花聚頂が出来たにしてもどれほど長持ち出来るかという問題も出てきます。勿論、三花聚頂の本来の意味を否定してはいません。道教では三花聚頂により人間の体内のエネルギーが一番分り難いところに集中することにとって、体では真の虚空が出来ていれば、推手レベルの話しでも押したらその人の体が感じないとの状態になります。勿論、近代人の方々がこのレベルの推手を疑っても仕方がありません。実際、今日にはこのようなレベルの人がいなくなりましたね。
「三花聚頂」は道教内功の最高レベルと言う伝説があります。謂わば、「宇宙在乎手、万物生乎身」、「本体虚空、超出三界」の領域ですね。近代人が不可能にしても、老子が280歳位の寿命からみると古代の聖者は偉いですね。
三花聚頂、五気朝元
2014年3月16日