人間は常に新しいものを追求していく高級動物であります。現代人は携帯電話を始め、パソコンやデジカメは毎年取り替える人もいる位にですが、勿論、昨今の電気製品は一般的に5年間の寿命しか持たなくなり、違う意味では5年後の製品は信じられない程性能が良くて古い製品を使うわけがありません。世界の産業革命がもたらされた文明は人類に数え切れない選択肢をくれましたが、私達は手を出し過ぎていることは古典哲学からみるときっとそうなります。
勿論、私達の脳が発達してきたこともあり、新しい電子製品を上手く利用すれば、近代人としての効率的収益が見込めます。例えば、プリントもネット添付も、保存も・・・、画質も優れている2千万画素、3千万画素のデジカメを使わないで敢えて50年前の一軒家が買える高級中判一眼レフカメラを使う人が殆どいません。(もの好きな人は頑張ってやっているが)デジカメでいうと年々画素数が上がることによって私達はついつい手を出してしまいますし、例え、いつの日かデジカメの画素数がもうこれ以上上がらなくなっても各メーカーはきっと他の性能等で競い合っていくことに違いがありません。そして、人間はいつまでも新しいものを追い求めていくことを選択します。
ここで、一度人間を哲学的にチェックしたいと思います。我々はそもそも、同じことを数回繰り返ししただけ飽きてしまうのではないでしょうか?人間は遊び好きで嫌なことは様々な方法で消そうとしますが、楽しいこと、面白いことはいつになってもとことん追い求めていきます。勿論、その延長線上のものを無制限的求めて行く傾向は人間学的には一般的に欲望というふうに申し上げます。
一方、人間学という学問はあくまでも人間というものを客観的に分析しより良い人間的方向性への助言に対し、心理学という学問は人間の内面世界(精神世界)を客観的に分析しなんだかの人間的堕落の解決法を研究するものになります。とある心理学者の研究結果からみますと人間はある一定の同じ動作を繰り返すことで内面世界はかなりの苦痛が生じてしまいます。私達の日常生活を思い起こしてみよう、ベルトなどの機械的作業をすると人間は精神障害を起こしてしまいます。マンネリ化した仕事をさせられると、何だかの形で一日の仕事を忘れようとします。(例えば、酒)あまり趣味を持たない人はアルツハイマーにかかりやすいことはもうご周知の通りです。そして、若者は週末になると思いっきり様々な遊びをします。(少なくとも近代人はもう保守的とは言い難い)これは当然にように、一種の繰り返す行動の対する回避行動で人間の自己防衛的本能ともいうべきものであります。勿論、非難すべきことではありませんね。
さて、太極拳を見てみましょう。結果的に繰り返す行動であることは非議出来ません。推手も基礎練習でしたら所謂相手と両手をぐるぐる回している行動に過ぎないので飽きてしまいますね。近代的太極推手はもはや自由化推手に発展つつあるがこれも人間の本能から生じた繰り返す行動への遊離に過ぎません。近頃の若者は武道を2~3種類を同時に修練することが多いですが私は基本的に非難しないようにしています。個々の一番悪い例では10数種類の武道を同時に修練する方がいたが呉式太極拳の修練ご希望を断ざろうをえませんでした。
でも、現在当研究会で太極拳を学んでいる方々の一般的考えは、呉式太極拳は難しいとの意見が一番多いです。中には、一生かけても完璧になれないというふうに認識している方も現れました。これは私も正直に嬉しいです。何故かというと一生をかけて完全さを求めていく訳ですので、所謂繰り返しの苦痛はないはずですが・・・。
明日の「四方山」、何を書こうかな~!今日は書き過ぎたのかな…!
( >Д<;)
繰り返しという苦痛
2013年6月8日