このテーマでかつて、「太極拳よもやま話し」を書き始めの頃も確かに短い文書を書かせて頂いたことがあります。このことになると日本社会では世界のビジネス界との交渉術で日本社会では普段慣れ親しんでいる「阿吽の呼吸」では通じないことが判明したそうです。特に日本が誇る商売のノウハウと言う者ですが海外では殆ど評価されていないことが日本のビジネス界ではいささか衝撃を与えているようです。ここは日本の価値観と諸外国(特に中国)の価値観が違うような気がしてやみません。勿論のようにこれは世界のどの国も言えることであって、私の分野とは直接関係していないですが、「阿吽の呼吸」と言う概念は中国を遡って数百年ないし千年以上の昔から大切にしていましたが、現在ではもはやバラバラ状態が深刻で、私は以前にも古代文明国が文化遺産を破壊していることで憤りを覚えたことがあり、今日になってもこのような現状はあまり変わっていないようです。ところで阿吽の呼吸とは実は人間関係的な文化遺産であります。互いに暗黙の了解を得た上でこれ位ならば互いに当たり前のように妥協出来るのでしょうと、余分な説明がなくても大きなトラブルが起きないノウハウです。当然のように互いの人間力がある程度に達していることが大前提でありましょう。だが、どのような先進国も全ての人間がほぼ同じレベルの人間力を有するとは限りません。
日本国ですが、阿吽の呼吸と言う言葉があり、実際に社会の中でもかなり提唱されております。でも、世界のどの国も多くの民事裁判を抱えており、司法自体も杓子定規的に「やった、やっていない…、あった、なかった」と言う互いに反対事実を述べられている裁判をプラス、マイナス零のような判事例が実に多いです。そして契約書内容がかなりおかしくても契約通りの判決がかなり多いです。当然、このように裁判を行えば裁判官は楽ですね。世界中に司法がおかしいとも言われている中で日本のような民事裁判も仕方がないでしょう。隣の中国では殆どの民事裁判では「不受理」を喰らってしまいます。要は、このようなくだらない庶民のことを裁判官を惑わすなと言う意味でしょう。民事は町内会とかの元で所謂「和解」のような形になります。一方、工業で起きた労務事件や工場同士の問題は司法ではなく、日本の労働組合に当たる「工会」所属の「法工部」が判決を出す事になります。これもまた受賄収賄の無法地帯で不服の申し立ては時の総理大臣迄上訴が可能のようです。阿吽の呼吸というかなり古い時代の人間関係術は今日の世界に通じるかどうかは社会学者の永遠の研究課題でありましょうね。
ところで、太極推手練習の時には「阿吽の呼吸」と言うものが存在します。現在も研究会の練習の時に推手時の前傾と後退の時に呼吸で合わせるようにしていますし、勿論、二人の推手練習者の一瞬の呼吸は逆になります。そして、道教太極推手は格闘を前提に設定しているわけではないですし、(格闘にもなる)日本社会にかなり近い突かず離れず関係もじつに大切にしています。なにかの手段で誰か一人が一方的に実力が上がるのではなく、互いに一瞬一瞬の推手を互いに感じ合い、共に実力をアップさせることが古代人が言う「阿吽の呼吸」には共通しています。太極拳という東洋文化の一端として理解して行くにはこのような古い文化が盛んである日本ならば最高ですね。そして、私達の推手を体験している方の多くは何故か異口同音で「禅問答」のようですねとおっしゃってくだっています。嬉しい励ましですね。
私達が修練している太極拳は日本人の心に最も近いものがあると自慢ながら認識しております。是非ともお試し頂ければ幸いです。そして、多くの企業とのコラボも心より期待しております。アベノミクスは日本にどれ程の経済効果をもたらすのはまだ少々不透明ですが、例えば地域に中小企業を知って頂くには人々をなんだかの集いに加わる事が大切でありましょう。健康と人間力を大切にしある程度の護身術も修練出来る家元の呉式太極拳が社会に広がる事を願い、様々な場で人々の集いのきっかけになるよう努めていきます。
社会が本当の阿吽の呼吸で動くことを願っています。
阿吽の呼吸
2014年1月8日