先代全佑師が楊式太極拳二代目弟子である楊班候先生より、「太極法説」を伝授して頂いてからはかなりの歳月が過ぎようとしています。今日でも私達が「太極法説」を座右の銘にして太極修練を続けております。「太極法説」に「太極文武解」と言う項目があり、原文と共に私なりに説明してみたいです。
太極文武解原文:
文者体也,武者用也。文功在武用于精气神也,为之体育;武功得文体于心身也,为之武事。
夫文武犹有火候之谓,在放卷得其时中,体育之本也。文武使于对待之际,在蓄发当其可者,武事之根也。故云:武事文为,柔软体操也,精气神之筋劲;武事武用,刚硬武事也,心身之骨力也。文无武之预备为之有体无用,武无文之伴侣为之有用无体,如独木难支、孤掌不?技。不惟体育、武事之功,事事诸如此理也。
文者,内理也;武者,外数也。有外数无文理,必为血气之勇,失于本来面目,欺敌必败尔;有文理无外数,徒思安静之学,未知用的採战,差微则亡耳。自用于人,文武二字之解岂可不解哉!
この文書に関しては直訳よりもしっかりした解釈がよろしいでしょう。
文武解の文は今日の言い方にすると人体と言う資本でしょうか。武道の世界では内勁と言っている方が多いです。文武解の武だっと内勁を使って戦うことです。(気功で治療することではない)体の資本を使って人と戦う時は精と気と神で現れます。古代中国ではこれを体育と言っていましたが、戦うことは人間の体と脳をもって体の資本から出ることです。これは所謂武道であります。
文武は火加減のように例えられます。体の伸び縮みの中で生まれるもので、体育の基本です。(今日の日本語や中国語の体育と言う言葉の意味と違う)文と武の哲理は人と戦う時に使われます。特に内勁を回収したり発勁したりする時の根本になり、。武道の基本です。古い時代ではこのようにも言われています:武道を文的に修練すれば、柔軟体を動かすことになり、精、気、神のルートからの勁です。武道を武的に修練すれば、硬い武道になり、これは体全体の骨のルートの力になります。文的に武的な備えがなければ、謂わば内勁があって使えないことになり、武的に文的な支えがなければ、謂わば内勁がないのに戦おうとしています。両者は一つも欠けてはならぬ、武道にしろ他の体を動かすことにしろ、皆がこの原理からきています。
文とは体内の哲理です。武とは身体的なテクニカル的な数々です。外的なテクニカル的な動きがあって、内的哲理がなければ、機能的な勢いがあっても本来あるべき武道の形と違い、敵と戦ったら負けてしまいます。内的哲理があって外的な動きがなければ、静止的な学説になり、もしも戦いに応じたら下手すると命を落としてしまいます。人間である以上、武道に関しては「文武解」をしっかり把握しましょう。
皆様、いかがでございますか。当派ではこのような解釈をしております。残念ながらまだ日本に来て楊家のご兄弟に出会ったことがありません。楊家四代目弟子でいらっしゃる楊振鐸先生のお話しでは日本に一名いらっしゃるそうですが、これは楊式太極拳の楊班候先生の伝授であるし、楊家のご兄弟も「太極法説」をご出版される程大切にしていらっしゃるので、機会があれば是非とも楊家のご兄弟や先生方のご指導を伺い、私達の見解の足りないところを補って頂ければ幸いです。
この世のどの学問も生涯をかける修行であることは、自分も謙遜を美徳として受け継がれている日本国で習得しつつあります。そして、かつて上海で各家(楊、武、孫)との理論懇談会を思い出す度に一人ひとりの太極拳先輩やご兄弟の顔が浮かんできます。もう既に他界している方もかなり多いですが、私達もいつの間にか太極門を背負うことになってきました。嘘はいけませんね。自分の解釈が間違っていたら、各家の先生方のご訂正を心よりお願い致しております。
呉式太極拳 沈剛 識