私の推手は師馬岳梁によるものですが、師がいない時は同門の者が練習相手になっていました。若い同門では、大体、力任せで互いの胸を押したり、脇を攻めたり、または時々、力任せで人の関節を決めようとしました。私も若い頃は怪力で有名でしたし、師の数人の子供も師匠譲りの立派な体で皆100キロ近くありました。それは大きい音を立てていて、にぎやか様でございます。
いつも、師が急に練習部屋に現われます。その時の第一声は:「頂牛はいけないよ!」と、そして皆は血圧が下がる程、静かになります。中国語では頂という動詞ですが、突っ込むという意味になります。「頂牛」とは牛のように角を使って戦うことです。ある日、私と馬江麟が力比べのような推手をしていたところで師に見付かっただけで、二人してかなり叱られていました。ペナルティー迄出ましたね。夕飯まで基本拳を三回練習しろとのことでした。
近頃、自分も師が長い間言っていた腰椎、胸椎、頚椎の一節ずつの伸びや相手の力を上手く軽く上方へ方向転換する「粘勁」などの「太極十三勢」が少しずつ身に付くことにより、師馬岳梁が申し上げていた「頂牛はいけないよ」との言葉はされどまさしく、誠の心理であることはわかります。が、若き沈剛は師の教えというものはなかなか理解出来ませんでした。何故ならば、師のような柔らかい体との距離が大き過ぎましたね。今日になって、体の柔らかさを少々、手にいれたところでもう人と力勝負をしなくても何とか人の攻撃を交わすことが出来る以上は力で戦う必要がありません。そして、あまりにも力強い方に押し出されても若者のような「畜生、悔しい・・・」は殆どなくなりました。年のせいとでも年のお陰とでもいいましょうか。押し出されてしまったら自分の「太極勁」がまだ完璧ではないからと、自分を慰めるような人格も出来つつあります。ああ、人間って年をとれば成熟するものですね。
だが、現在のところ、太極拳本系(呉式含む)の成熟した者でも「頂牛」をしますね。何故でしょうか?私的には太極拳全体が退化しているに違いがないですね。推手の意味を間違ったイメージで教わってしまった以上は力尽くの推手になります。そして、この私でも馬岳梁のような推手が出来ない限り、推手が頂牛ではないと一生懸命、皆様に口説いても、説得力がありません。もっと、練習しなくちゃ、時間がないですね。あっという間に年をとります。
馬岳梁の「頂牛」という表現
2013年8月27日