昨日は世の中で一つの思想を樹立することの難しさと、太極勁修練にがいかに単調で無味乾燥であることを言及しましたが、本日はあまり知られていない太極拳の芸術性の一面を語ってみたいと存じます。
「よくわかってるよ!太極拳は音楽と一緒にやるのでしょう?…」と、多くの方はきっとそう呟きます。
ああ、そうですね。制定太極拳で音楽をかけることも、まあ、一つの芸術ですね。女子体操も新体操も音楽と一緒に舞うことは一種の芸術であることは確かです。
でも、本日のテーマである芸術は少し違う意味の芸術ですね。人体の内面的な芸術のことですが、「太極勁」が芸術のようなものですね。時々自分一人で静かに練習する時に回りには何も一つの雑音が聞こえなくて、時折、鳥のさえずりが聞こえてくる時に太極拳長拳を一時間15分位をかけてゆっくり修練の時に、「開合」に呼吸を合わせていれば、自分の体が透明のように感じますね。(自然に感じましたが、感じるようにしたのではない!)そして、このよう状態長く続くと体の中の臓器が見えるようになり…。でも、このような現象はいつも感じるものでもないですよ。多くの場合は感じ始める頃に横から「これは太極拳ですか?!なん式ですか?!…」との掛け声と共に、パーですね。
このような現象は私も最近数年になってやっと自然に感じるようになりましたが、かつての幼少期に二人の師匠よりこのような話しは伺ったことがありますし、絶対に真似しないようと何度も念を押されて警告されたことも事実です。数年前からこのような体験があり、太極拳基本拳や「八門五歩」を修練する際に環境が揃っていれば味わうようになりました。
勿論、先人の経験に基づけばこれは膨大な太極芸術のたったの入口に立っていることに過ぎない自覚しかしておりませんが、このような神秘的身体現象は自分がまさに断念寸前に現れたのです。勿論、このような自分が出来ると夢にも思っていませんでした。ご察しの通り内面的芸術も長い間の外面的かつ機能的芸術の訓練が必要になります。
でも、誰が見ても私は皆様と変わらないゆっくりした訳がわからない「太極拳」と言うものをやっているに違いがありませんね。いいえいいえ、私の太極拳は一定の意味では連盟の先生方の太極拳よりもきたないものです。特に太極拳の中で分脚など足を上げる技があり、多くの方が私よりも綺麗に高く上げていますね。私は伝統太極拳であまり腰より高く上げないように言われていましたが、今年が51歳になる私はもう高く上げることは無理に近いです。これは芸術性という意味で私が多くの先生方に劣っているところですね。でも、自分は自分なりに色々と出張をし違う角度からの芸術性をアピールし続けてきました。例えば、太極拳練習時のほぼ同じ高低差や同じスピードのことです。そして、何より私が大切にしているのは太極拳の中での複数の違う動きのタイミングの統一でございます。(太極拳種類によって同じ動きしかないものもある)複数の違う動きを同時に始まり同時に終了することは伝統太極拳の中で「整体勁」と申しており、「太極八門五歩十三勢」の中で最も習得しにくい「不丢顶」の勁にも直接関連をしています。自分はまだ様々な動きで不揃いが生じており、日々の修練を通して修正し続けています。太極修練と言う芸術の中で最も難しいとされてきた「開合に合わせる呼吸」については、頭が悪い私は30年近くかかりましたね。しかも、今でも何かの雑念が生じるとすぐに呼吸が乱れてしまいます。
伝統太極拳は拳法だけではなく、剣、槍、刀も多く継承されていることから昔から踊る武術、筆のような武器との呼び声が高いです。昨年から私の研究会で半年位太極拳を修練した方々に今年のはじめから「呉式太極剣一路剣」の「乾坤剣八十九式」を教え始めたのですが、10年のベテランでさえ筋肉痛を起こしたりしておりますね。でも、多くの方はこの「一路剣」で真剣そのものです…。いつか、日本で「筆のような剣」と言う芸術的作品を演出してみたいですね。
芸術のような太極拳の楽しさ
2014年1月19日