これは推手の達人と推手をする時にある独特な感覚です。わたくしは師馬岳梁と師赫少如(武式太極拳巨匠)に2名の手の元でこのような感覚を覚えたのですが、赫先生は武式太極推手では呉式太極推手みたいに沢山の手法や手付きが無く、ただ、手と手が触った瞬間に足元がぶらつき、体全体が浮くかのように漂う感覚でした。師馬岳梁に関しては数回か触られていないのに私が自ら重心が失っていく感じでしたね。非常に不思議に師馬岳梁も師赫少如も真面目に「弓歩」「虚歩」をはっきり分けることはしていませんでしたが、触った時の全身の軽さは実に信じないものがありますね。
師赫少如と推手をしていると急にもの凄く重くなったり、かといって突然急に軽くなりますが、わけが解らないうちに重心が失ってしまいます。自分が少々強引で押し込むと赫先生の体にはまるで力点がないようで綿やスポンジーのように柔らかくて不思議でした。
師馬岳梁の場合はこうなります。自分達が何か力尽く方法を考えた矢先にもう既に重心が失っていました。ほんの僅かな動きでも察知しているとのことになりますね。ある日、私は師馬岳梁の両腕を堅く掴んでいました。(当時の私はかなりの怪力でしたが)だが、掴んだ一瞬、馬師の体は微動ともせずに、何処から来たパワーなのかさえわからなく、自分はもう十数メーター飛ばされ、庭にある鉄の扉に叩きつけられていました。師は心配そうに声をかけてくれたのですが、自分が飛ばされたショックよりも、師の「太極勁」に驚いたのです。当時の未熟な私ですが師にこの技を教えるよう頼み込みましたが、師の答えには結構がっかりしましたね。「これは年数ですよ」今になって、私も偉そうに自分の学生さんの皆にこのような口調で話していますが、師馬岳梁の「太極勁」迄はまたかなりの道程があります。
ところで、推手時足元が浮くとなると、太極十三勢の中の「粘」になります。相手の一瞬の動きを捉え、その動きを上方へと導く太極的力の一種です。多くの中国人も現在、断片的に太極拳の書籍を読んだり、文字通りの意味で理解したりしますが、中国語がどんなに達者な方でも、太極拳家元の世界では、一般的な中国語と違うふうに中国語単語を使う場合が多く、適当に中途半端に理解してしまうといつになっても進歩をしないこともありうるのです。太極拳家元より継承されてきている文献は簡単に理解出来ないことは自分も大分大人になってからやっと理解しました。
いずれ、太極推手は太極十三勢を基礎にし、それぞれ、難しい外的動きと内的「太極勁」との総合的な融合で成り立つものです。四正推手を掤・捋・擠・按だと簡単に片付けてしまうことのないように、もっときちんと太極拳の歴史と理論を勉強していきましょう。
漂う感覚
2013年9月24日