日本は神の国であると本総理のM様がおっしゃったのですが、わたくしはいい意味でこの発言を賛成しております。日本人は様々な意味で神様の存在を素直に認め、例え無宗教の方でも冠婚葬祭で神々に向かってきちんと一礼をされております。数人の日本伝統武術家とのお付き合いの中で知ったことは日本伝統的な武術家は皆、武道と言う特別な能力は神様ないし大自然からの産物であることが学習しました。日本は神の国だから人々はじつに武道が好きであることは紛れもなく事実に近いです。では、中国功夫を見てみるとどうでしょうか。中国は少なくとも太極は道教で少林と蛾眉などの流派は仏教からのものです。ほぼ、すべての主流たる功夫は宗教から来ていますね。その理由はもう既に様々な雑誌や新聞記事で報道され議論され続けています。わたくしも長い間の太極修練で僅かな感想を積み重ねて参りました。多くのの武道家の方と分かち合いをさせて頂ければ幸いに存じております。facebookで炎上しても私はコンメントをせずに見守ることとさせて頂きます。
仏教功夫は佛や菩薩、羅漢様や金剛様の姿から来るものが非常に多いです。少林では十八羅漢陣から四百羅漢陣迄・・・、技の多くも神々の名前が付いており本当に神業と言っても過言ではないですね。そして、かつての少林寺は出家の僧侶でないと本物の功夫や気功術をお教えしないとかの噂も沢山伺っておりますし、実際に僧侶や道士が強いという昔ながらの中国的な社会概念も功夫のことが何も解らない者でさえ知っています。少林寺の功夫でかつての唐という政権の立役者であり、唐の始皇帝も仏教を大切にし佛教史的には神のご加護があっての繁栄国が出来上がったとも言われています。それでも伝説では西天の大如来様は唐の人々の人間性が良くないと判断し大乗仏教を唐の国に与えたとか・・・。西遊記は伝説ですが神が社会との関係でいうと今日の日本や世界にも通じるような話しではないでしょうか。そして、仏教功夫と言ったどれも神様の元で出来ているものと言って過言ではありません。これは極狭い領域で語るとわたくしが現在太極修練をしている時の最も大きな妨げはこの浮世の圧力や誘惑ということから分析すると、毎日のように神様に使える方は世界から一歩離れている方々は少なくとも私のような社会的悩みがないことは大きな助けになったはずでありましょう。
道教はどちらかと言うと神様が自然であることをかなり主張しています。「太極」という言葉の意味自体も天地創造後のすべてが開かれている様子を指していますね。自分が広大な大自然の中での塵の一つに過ぎないことが道教思想の基本であり、多くのの同教思想家や太極拳巨匠が提唱していた「滄海一粟」や「大浪淘沙」との考えもこのような道教思想から来ているものです。太極修練になると自分がいかにも塵のような存在でないと難しい太極拳の技を教えても意味がないと解釈している道家の者が多いです。自分が如何にも世界の中でどれ程小さな存在であることの確認が太極修練の最も大事なことかもしれないですね。人間の体の中にある小さな宇宙と本物の広大な宇宙との照らし合わせることが所謂「太極勁」修練時の大きな自然条件であり、そして私のような人間はなかなか無理ですが器の大き方は太極修練に於いていつも先へ進むはずでありましょう。太極修練は技の修練もそうですが心の修練はもっと大切のような気がします。
本日のテーマより少々反れてしまうかもしれませんが、わたくしが大好きな仏教徒である女性詩人金子みすゞさんの「蜂と神様」という詩を引用させて頂きます。
蜂はお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土塀のなかに、
土塀は町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに。
さうして、さうして、神さまは、
小ちやな蜂のなかに。