これは太極拳の中で「舍己従人」と言う言葉の私なりの訳になります。これは所謂、太極拳推手の中で自分の主張を捨て、他人の動きについて行くことになります。これはおそらく太極拳の中で最も難しいことではないかと思いますね。二人の人間が戦うことになると勝負している為、互いに面子があり譲るわけにはいかないからですね。そして、互いに膠着していると一般的に誰が少しでも引くろたちまち責められてしまいます。私達の太極拳だけではないとは思いますが、私達は特に自分を捨てて、人に従いなさいと自分は小さい頃からこのように教わってきました。勿論のように自分達が力尽くで推手をすると師馬岳梁はいつも怒ります。「めちゃくちゃ押すのじゃないよ・・・」と自分も師馬江麟も三叔父馬江豹も結構怒られましたね。
この「舍己従人」ですが、文書としての解釈は簡単ですが、道を悟ることの難しさは一般の武道と違って、相手と接触した瞬間に相手の僅かな小さい動きに直ちに連動しそれに従うことです。勿論、一方的に下がって退くと言う意味ではないです。相手が微妙に東に行けば、自分もすぐに相手とほぼ同じ動き幅でついて行けば、相手の重心が一瞬に我にコントロールされてしまうことになります。「舍己従人」はただ、人の攻めを耐えるだけでもないですね。人に従うということで一瞬の間に相手と同じ動きを、遅れず、急がずに相手にぴったりくっ付いての動きであれば相手はこの動きに対してかなり戸惑うことはわかりますね。勿論、この弱点は露呈してしまったご本人もわからないことが多いです。このように弱点として相手に突かれて、自分がまだ知らないとなると、中々不思議で仕様がないですね。このように相手を触った瞬間に自分の体全体の軟らかさから相手の僅かな揺れや不合理な動きについていくことが謂わば、「舍己従人」になります。でも、例えば、相手が自分の胸に手を当てて自分の重心を誘いながら自分を崩すとして、押して来た時も一方的に退けばよいでしょうかという質問もかなり多いですが、押す手に対してもしも全く同じスピードと重さで小さく下がっていればよいですが、一般的には相手の押す速度がかなり速く、自分の軟らかさではこのようにスピーディーに対応出来ないことが殆どですね。ならば相手が押してからだと既に遅いケースが殆どになりますね。そういう時は相手が押そうとする直前に小さな呼び動作や僅かな動きの欠点を感じて欲しいです。そして、ただ、感じる軟らかさだけでは間に合いません。一瞬の相手の殆どわからない欠点にぴたっとくっ付いていく体全体の軟らかさが備わっていれば、一瞬の間に相手の動きを殺してしまうことが可能です。これは謂わば、「人不動、我不動、人微動、我先動」と言うことですが、体全体の軟らかさとバランスが結果的にすべてのものを言うことになります。
私の教室ではかなり推手に力を入れております。そして、何故か皆様は遠慮してあまり崩し合いはしていないですが、勿論、私の対しては時々力で押して来ますね。勿論、私は皆様が押してくることも歓迎しています。しかし、教室では今日に至る迄まだ一度も転倒したことがありませんが、僅かに重心を失わせる位はしますが、殆どの時間ではやはり十三種類の推手法の練習を繰り返し練習します。互いにゆっくりと手と手を繋いで練習することによってこの「舍己従人」のことを時間をかけて習得しようとしている殆どの方を見て自分もかなり感動させられています。思わぬ毎回のように空が真っ暗になる迄皆様に付き合っております。「舍己従人」ですが、少し違う角度から見てみると人と手を合わせた途端に自分の欠点をいかに少なくすることが大事であることも理解出来るのではないかと思います。
そして、太極拳が言っている「舍己従人」は一生涯をかけて修練し続けることで少しずつ完成に向かっていきます。人様の動きの欠点もそうですが、人様がストレスで体が硬直気味の時も感じるようになってきますね。太極は道です。推手は人を殺すのではなく、人を活かすことを求められています。
我を捨て、人に従うこと
2014年2月9日