と言ってもこれは師馬岳梁と呉式太極拳創始者呉鑑泉の考えでございます。私は呉式以外の武道は殆どやっていないし、幼少期に呉式に入る前にやっていた武道も12歳からはすべて忘れるようにしております。なるべく馬岳梁師の教えを守ってやってきましたが、呉鑑泉師にはお会いしたことがない為、幼少期に呉英華師が描いてくださった呉鑑泉師の推手イメージで1989年からの日本での太極修練でいつも自分自身と重ねるようにしてはおりますが、遥か遠い存在で世界に何故このような偉人がいたのか、私は不思議で仕様がないです。勿論のように、負けず嫌い私は師馬岳梁の太極勁にも常に重ねるようにして確認し続けていますが、それでも追い付くのがかなり難しいのようです。ならば呉師と馬師が言っていた「太極推手は修正の連続」と言う学説は自分にとってはすべてであり、あの遥か遠い存在の二人を超えなければ当然のように私は自分の学説や他流派の学説を語るわけにはいかないでありましょう。
勿論のように、この雑草のような私が言うこと何かは飽くまでも今日のネット世界での言論自由が保証されているだけの話しであって、呉鑑泉師も中国が認めている六代流派の中の創始者の一人であり、様々な近代制定太極拳連盟や大グループも推手を種目として練習している為、私が推手について何かの発言も飽くまでも私見に過ぎません。ご参考になって頂ければ幸いです。
では、まず何故推手と言う種目が必要でしょうか。何故散打や散手ではないでしょうかと言うご質問から入りたいです。私見では推手は信頼関係が出来ている上での戦いの練習です。当然のようにあまり相手を倒したりはしません。(プロ同士で倒れても良い実力を持つ人間なら別論)わたくしは現在、一般の方とプロの方の両方を教えておりますが、当然のようにプロの方と一般の方による推手交流もしばし行われています。でも、自分をはじめ回りに一般の方と一緒に勉強しているプロの者共は一般の方を倒したりはしておりません。私達の理由は実に簡単です。太極拳と推手はどちらも弱者と言う設定を何よりも優先しているからです。家元の弟子であろうが50歳60歳過ぎてからはじめて太極拳をやりだした人間であろうが皆、弱者の一人に過ぎません。当然、このようなお気持ちで推手をしていると自分よりも弱い相手を何とかテクニックや強い内勁で飛ばすのではなく、自分自分も相手との無数の電光石火の戦いの中で様々な修正を行うことによって互いに太極勁が上がるとの哲学的理論に至ります。太極拳先生が自分の細かい動きの修正により一緒に推手練習をしている一般の方もそのより理想に近く修正された動きの良い影響を受け、一般の方々も推手が上達し太極勁が習得しやすくなります。太極拳先生の責任が思いようですね。発勁や内勁による飛ばしが出来るのにしないことです。学生の方はその完璧に近い動きに連動され先生に少しでも近い動きが出来るようになります。先生の者も「突かず離れず」の連続で一瞬一瞬をより完璧に近い修練が出来、より多くの細かな一瞬一瞬を貯めていく努力を求められています。
ここで、二つの連続を申し上げたいです。一つは一つの推手動きの中での修正です。当派の家元弟子では基本である「四正推手」を数年もやらせることがあり、多くの弟子が嫌になってしまう程のものでございます。でも、はっきり言って考えてみると「四正推手」と言う簡単な「一、二、三、四」と言う四つの動きに中ですが、どれほどの細かい動き、何千万個の細かい変化が入っているのだろうかは本当に数年もかけて毎日のように練習しなければ、決してわかることが有り得ないです。私のように十三推手の推手手法を一刻でも速く皆さんに教えてしまう者は実は学生にもっと沢山の練習をするように求めているわけです。回りの殆どの皆様がこれに答えて下さっておりますね。嬉しいですよ。
そして、生きている間に推手の全体に於いても常に修正を行うようにお勧めしております。わたくしは生きている限り、師馬岳梁の素晴らしい太極勁を諦めません。皆様も頑張ってください。
太極推手は修正の連続
2014年1月15日