「君子和而不同、小人同而不和」と言う言葉は日本でもかなり尊敬されている中国儒教の代表人物である孔子が申した言葉です。近代社会学や人間学の観点からみるとこれは古代中国という狭い範囲にしか通じないものではなく、近代社会のどの国にも適応しており、おそらく、いつの時代位になっても人間が地球上に一日でも存在している限り、人々の間に和と同が常に付き纏うことが続きます。和と言う言葉は隣の中国と言う国で倫理教育の一貫として義務教育でもかない強化されており、国初の新幹線までその名前が「和諧号」といかにも孔子の言葉が人々の心の中で生きていることがわかりますが、中国では人々が皆和気藹々で仲良く生活をしているのかと問われると、答えは残念ながら違いますね。冒頭、孔子の言葉の中には今日の世界では多くの思想家や宗教家が差別用語扱いをしている「君子」と「小人」との二つの言葉がありますが、孔子は人間をおよそこの二種類で分けた事自体はかなりの歳月をかけたことは歴史上にも有名ですし、様々な人にも声をかけて質問をしていて、道教の老子にも「道を問いだ」ことで有名ですが、結論を出された頃は私が思うにはおそらく、孔子さんはかなり人間に飽きってしまったのではないかと思いますね。「君子」と「小人」の解釈も人によって違いがあり、道教的では物事を言う時は日本人とかなり近い良い意味で言う曖昧さを大切にしています。簡単に申すと「君子」や「小人」とはっきり言わないで「ある方々」のような表現なら風当たりが緩くなることです。
では、孔子さんがはっきりと名言をさせてしまった「君子」と「小人」はどの人々を指しているのでしょうか。この問題もそれぞれの政治目的や立場、そして、それぞれの思想的需要で当て嵌る解釈も実に様々であることは、今日の複雑な世界では珍しいことではないことが誰でも理解出来るはずでありにましょう。一般的に共産主義者とキリスト教では「君子」のことを金持ちや高い社会的地位立つ人間のこととして扱い、貧しい人々や社会で目立たない人達のことを「小人」と言う差別用語を批判的な態度を用いっていることも理解出来ます。これは社会制度や宗教基本綱要の必要があり、私は一つの思想として素直に受け止めておりますが、しかし、それで共産主義者やキリスト者は必ず、金持ちと貧しい人々を同等にしていることを徹底しているかどうかは、自分とはまったく無関係であり、しかも追求出来る立場にいません。そもそも、世の中に政治や宗教が出来た段階で一つの思想や一つの名言に対しては様々な人間による違う観点が生まれ、同じ社会制度の中でも時期によって需要に応じて一つの思想を評価することも珍しくありません。
そして、資本主義社会ではもはや「君子」と言う社会を率いる立場の人物が目指す目標になることが一般的です。偏差値や学歴社会、その為に大変苦労をして受験戦争で頑張って、一つでもより良い「君子」の地位の為には家族全員で奮闘しているのはアジアの先進諸国です。これは中国古代史の中によく出てくる「十年寒窓」とあまり変わらない様子ですね。でも、東大も早稲田も慶応も、限られている学生しか入れない為、世には「君子」だらけの世界にはなれませんよね。
結果的に学歴がないことを「小人」扱いする思想からみると、この世界には「小人」が多いことになります。(事実そうだが)では、「君子」と「小人」の割合は社会制度や思想により変わるのでしょうか。私個人的には変わらないように感じております。どの国も制度を問わずそれぞれの職場で人間同士が支え合うことで国が成り立っていますね。和であろうが同であろうが逆であろうが、地球が毎日のように回っています。
私的には孔子の「君子」と「小人」をこのように分けています。
「君子」:絶えず自分自身を変える気持ちのなる人、常に吸収する人。疲れる。
「小人」:現状で自己満足している人。楽。
勿論、私的には「君子」も「小人」も中性の言葉で特にプラスマイナスをつけておりません。社会的立場や個人の生活で自分自身を変える余裕がない方々が非常に多い今日の世界ではもはや「小人」をやっていて、ある程度自分の限界を認めて生きていくことは疲れがすくないと感じております。言い換えれば人々に合わせていればよいことです。孔子が言っていた同せずは近代社会をみればいかにも簡単にに理解出来ます。出る釘は打たれるから合わせましょう。でも、人間はこの場合、真心でそれに従うことをしない反抗心が誰でも持っていると近年、心理学の研究でわかりました。
世の中には同じ人間が一人もいません。所謂「同」は合わせているだけです。
人間(第十六章)
2014年3月7日