皆様、本日のテーマの《心相篇》の作家の名前は忘れました。幼い頃に二人の師より伺った話しでは宋の時代の有名な道士だそうです。その道士さんは《二十四気坐功功法》は有名な気功療養法であり、有名な哲学的な著作で《心相篇》も中国史の一ページを占める程の力作です。
《心相篇》の内容も私ははっきり覚えていないですが、師よりの色々な話しではかなり辛口だそうです。勿論、昨今のインターネットの発達振りからでは検索すれば沢山出てきますが、中国のネットになるとどれも信憑性が低く、同じことについてもまったく違う見解が出てきたりしますので、いつか中国史に詳しい親戚に教わることします。
だが、《心相篇》の辛口振りを振り返ると近代社会ではなかなか、想像出来ないものが御座いますね。例えば、「才偏性执、不遭大祸必奇穷。」これは、才能が偏り性格が強情だと大きな災いに合うか貧しくなるだろうという意味ですね。「轻口出违言,寿元短折」これは、口が軽く、適当に物事を申すと寿命が縮むよという意味です。他にも沢山の諌めごとや褒め言葉がありますが、具体的には殆ど忘れてしまい実に残念です。作家の名前も覚えていない位ですので本来ならテーマにすることも無理ですが、人間学的にはかなり面白いので取り上げました。
当時の宋朝という時代が連年のように戦争が激しく、民の生活もかなり大変でしたが、今日の先進国とはかなり差があります。戦争中とかの動乱の時期ではいつ爆弾が頭に落ちるかが分からないので、物事についての考えもかなりはっきりしているのですね。これは古代より伝わってきた太極拳もどちらかというとそうかもしれません。伝統太極拳では一般的に「開合」というはっきりした動きをしますが、これは「一開一合」で一つ一つの動作がはっきりしています。だが、弱者の拳法で力で問題を解決することではないので、いろいろな細かいカラクリも当然のように入っています。これが何故か近代社会のような考えですね。人間は段々と力を使わずにして重い荷物を運ぶことになっていますね。そして、人間の脳の代わりにパソコンを働かせます。ということで改めて古代の太極拳を分析するとどうも近代的な存在ですね。逆に今日の新しい太極拳(全部ではないですが)は「開合」が行われず、細かいカラクリもしなくなったのですが、推手は力尽くでかなり弱者の拳法から外れ始めましたね。賢い動きはどこにも見えなくなってきました。
単純な古代人がカラクリが沢山盛り込まれている太極拳を修練していたことに対し、単純な太極拳をする近代人がここにいます。その原因は、一、近代人の体はもうかなり鈍くなっており、賢い動きには対応出来なくなったかもしれません。一、楽したことにより人間の機能は古代人へと逆戻りしているかもしれないです。
但し、古代人よりは力はないはずですね。
宋朝の《心相篇》は好きですが、その時代の道教理論を今日にどこ迄通じるのかは何とも言えませんね。でも、参考文献としていつか親戚の中国史専門家にお願いします。
道教思想も道教太極拳もいつかはこの世には必要なくなってくるような気がします。50年前に人類は誰も今日のパソコンの先進振りを想像しなかったのでしょうね。私は50年後の太極拳がどうなっているのかが想像出来ないことと同じように。皆様も想像してみませんか。